私は強い側にいるのだろうか?

昨日は、3月11日。AHIも加わっている「新型コロナに対する公正な
医療アクセスをすべての人に!」連絡会が主催し、ふたつの3.11を
思うオンラインセミナーが行われた。ふたつめの3.11とは、世界
保健機関(WHO)が新型コロナウイルスによる感染拡大について
「パンデミック宣言」を出したのが、2年前の3月11日。このふたつは、
偶然だけど、受けるダメージの大きさ、健康の回復や生活の再建
に必要なものにアクセスできるかどうかを見るとき、国や地域に
よって、そして同じ国の中でも大きな格差があるということにおいて
共通している。偶然だけど、必然ともいえる。。。

先日ある方が亡くなった。個人的によく知っているわけではないが、
事務所近くでときどきお会いしたり(正確にはお見かけしたり、だろうか)
した。その方は視覚障害で盲導犬を連れて外出されたり、お連れ合いが
ご一緒だったりした。
あるとき、その方を見かけたのだけど私は急いでいたので、挨拶も
せず過ごしてしまった。こちらから声をかけなければ気まずいこと
はないと思ったのだ。見えているのは私。その方にはわからない。
(ひょっとしたら、においや気配とか視覚以外のもので判別されて
いたかもしれないが)圧倒的な情報格差があり(これも
情報の非対称というのかも)声をかけるかかけないかを決められる
のは私だった(と思えた)

公正な社会。コロナ禍になって一層目にしたり、自分も使う言葉
になっている。でもこの方の訃報に触れたとき、その方の死を
痛むより、声をかけなかった自分(というより、大げさに
言えば情報格差を利用したあのときの自分)がよみがえって、
居心地が悪くなった。これからも同様のことがあるだろうし、
起こすだろう。また何らか逆の立場になることもあるだろう。
こたえは見いだせないけれど、今は少なくとも心に留めて
おかなくてはと思っている。

職員 はやしかぐみ