間と空間を楽しむ想像力

昨夕、能の羽衣(はごろも)という演目を観た。(「見た」がふさわしいかも・・・)市民能というイベントで、仕舞や邦楽を習っている人たちの練習発表のパートとプロによる能があった。パンフレットには残念ながら羽衣のあらすじはなく(アンケートに、それがあるとありがたかったと書いておいた)、でも、非日常感の中で幽玄に少し浸れた気がした。それにしても、夕方5時からの公演。一日バタバタしていたので眠気にたえかねてこくっとしても、舞台は何も変わっていない。

それにしても、ほぼ何もないと言える舞台背景を背に舞われる静かな、しかし凛とした動き。この「タイパ」とは正反対のような、すべてが「間」を楽しむように作られたような舞台。これを心から楽しんだ先人たちはなんと心豊かな想像力あふれる人たちだったのだろう。

羽衣のあらすじをネットで検索してみた。***

松の枝に美しい衣が掛かっているのを見つけ、持ち帰って家の宝にしようとした漁師の前に、天人が現れ、衣がなくては天に帰れないと嘆く。漁師は、舞を舞って見せてくれるならば、羽衣を返そうと言う。天人は、羽衣がなければ舞うことができないと答えると、白龍は先に衣を返すと舞わずに天へ去ってしまうのではないかと疑う。すると、天人は「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを(疑いを持つのは人間にのみあることで、天には偽るということはないのに)」と述べる。その言葉に白龍は恥じ入り、衣を返す。***

なんと、シャープな指摘!幽玄の世界には人間へのするどい考察もあったとは。それにしても、月世界の神秘と美しさを称えた天人の舞を「ちっとも動きが変わらないな~」と思ってしまうタイパ志向の現代人はどう見られるのだろう。

職員 はやしかぐみ