向き合うこと

天皇のインドネシア訪問が報じられている。その中で、太平洋戦争終結後もインドネシアに残り、同国の独立のために戦った人たちのことも伝えられている。

現地に残ったその人たちについて日本では必ずしも好意的にとらえられてはいなかったらしい。また、独立のために闘った英雄だけでなく、多くの犠牲があったことも忘れてはならない。

インドネシアの研修生から、イチ、ニイ、サンという言葉が聞かれたことがあった。おじいさんから聞いたらしい。

私のおじいさん、その人のおじいさん。それぞれどんな状況で戦争のときを過ごしたのだろう。もう今となっては聞けないことだが、侵略する側と侵略される側として時と場所を同じくしていた可能性も小さくない。

 

AHIの歴史をひもとけば、1980年6月に法人の設立に向けて準備を進めていたAHIの創立者川原さんと初代の事務局長になった山下さんが、タイのバンコクでアジア各国の地域保健活動をおこなっている人たちと会合を持った、香港、インド、バングラデシュ、韓国、インドネシア、フィリピン、などアジア各国の人たちが集っていた。これを機にネットワークを作るために、それぞれ出資しようという話で、いくら出資するかという話になった場面のことが、「アジアの健康」1995年4月号に出てくる。たとえ直接戦場に出向いたわけではないが、AHIの出発は、やはり加害者としての歴史を背負いながらであった。<その時の様子は、また追ってお伝えします>

 

インドネシア訪問を受け入れた側のジョコ大統領は、中部ジャワのソロ市の市長だった。AHIの元研修生のママンさんは、当時から障害者支援の政策提言を行政に対しておこなっていた。そのつながりでジョコ政権が誕生した後も、障害分野での政策提言に関わっているときいている。

職員 はやしかぐみ

写真は、インドネシア、スマトラ島。2020年1月