桑の実と「だから」

数日前、私好みの草がいっぱい生えている川を見つけて、その岸を散歩しました。

片方の岸は、舗装されていますが、反対側の岸は土のままです。

平らな部分はどなたかが草刈りしてくださってて、ふわふわと歩きやすいです。

 

そこに、桑の木が二本、(多分)自生していました。

おかいこさんが葉っぱを食べる、あの桑の木です。

 

一本は坂の途中で、たどりつけませんが、

一本は道のすぐそこですので、手前の枝は手が届きます。

赤い実や緑色の、まだ色づいていない実も多いですが

黒っぽく色づいた実もけっこうありました。

 

え、これって食べてもいいのかな。

川の岸の内側だから、いいよね。

 

なんて、あたりをキョロキョロしながら、考えました。

えい、と食べた実は素朴で美味しかった。

手の届く範囲だと、10個くらいだったでしょうか。

手の届かない枝は、傘の柄でこっちにひっぱり寄せたら

食べられるかしら。

 

次に行くときは、傘を持ってと思いつつ、

雨の日は散歩に行かないし、雨でもないのに傘を持っているのも怪しいし。

と、なかなか二回目はありませんでした。

 

先日、母に川辺に桑の木を見つけてね、と話したら、

「小学校のときには、よその家の庭に生えてたから、

食べられなくて残念だったって、言ってたよ」と

言われました。

 

私は小学生の頃から、道端の桑の実を食べたいと思っていたのかと

ちょっとびっくり。

さらには、そんなことを母が覚えていたことにも驚きました。

でも、本当に驚いたのはその後の母の言葉でした。

「だから、○○の保育園に、桑の木を寄付したんだよ」

〇〇は私の息子の名前が入ります。

 

桑の実を食べられなくて、残念がってた娘の言葉に

答えて、孫の保育園に桑の木を寄付するなんて、

何がどう母の中でつながっているのか。

少なくとも、30数年の時間を超えた母の「だから」の

意味が、わかるような、わからないような。

 

今朝も川辺の桑の木に、傘を持たずに行って

手の届く範囲で黒い実を楽しんできました。

写真は今朝のものです。

桑の実をほおばりながら、そういえば母も子どもの頃に

通学途中で桑の実をいっぱい食べて、口の周りや手を紫色に

染めて帰ったと言っていたことを思い出しました。

その頃はかいこを飼っている家が多く、桑の畑もたくさんあったそうです。

私が道端の桑の実を食べられなくて残念と思ったのも

そんな母の話を聞いていたからかもしれません。

母の「だから」は、自分自身の思い出に端を発していたのかも。

 

桑の木のある川辺は、小学生の通学路にはなっていませんが、

犬のお散歩に歩く人たちはいらっしゃいます。

でも、先回から今朝まで、私以外に桑の実を採った人は

いらっしゃらなかったような。

争奪戦になったら困りますが、美味しい桑の実が誰からも顧みられずに

落ちていくのも、また寂しい。

 

今度は傘をもっていこうかな。

いや、それをするにはまだ私の勇気が足りない。

 

職員はさだ