二人の熱い教育者。出会いはAHI~元研修生ビンドゥさんと森崎さん

2008年にバングラデシュから国際研修に参加したビンドゥさんが、
現地の活動を支援している森崎芳子さんとご一緒に、AHIを来館。
お昼を一緒にたべて、交流のひとときをもちました。
「AHIの研修は、私の人生のターニングポイント。
けしてわすれません」
と、日本に来るたびにAHIを訪問し、
活動の進捗状況を報告してくれるビンドゥさん。
そのビンドゥさんの活動とは?
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バングラデシュがパキスタンから独立した直後、1971年のこと。
その際の戦争によって住まいや職を失った人たちが、
地方から首都ダッカに押し寄せました。
当時の大統領は「建国の父」と言われるムジブル・ラフマン。
バングラデシュの人々から、
親しみをこめてボンゴボンドゥ(ベンガル人の友)、と呼ばれる人物です。
ボンゴボンドゥは、
劣悪な環境で暮らすダッカの人々の生活を向上するために、
3つの地域に人々をあつめて、その改善事業を図ろうとしました。
その一つが、ビンドゥさんの活動する、チャンパラスラムです。
しかし、その2年後、ボンゴボンドゥは暗殺され、
スラムの開発計画も頓挫してしまいました。
ビンドゥさんがチャンパラスラムに関わるようになったのは、
それからだいぶたった、1982年です。
放置されたチャンパラスラムの状況を支援するために、
国際NGOが活動を始め、小学校を創りました。
ビンドゥさんはその小学校の校長先生となり、
スラムの教育改善に関わることになりました。
小学校を中学校へとグレードアップ。
しかし、1987年にその国際NGOは撤退してしまいます。
ビンドゥさんは学校を続けるため、新たな支援先を探しました。
そして、1年後、現地のNGOの支援を得ることができました。
そのNGOからアドバイスを受け、
1989年には、自分の団体をつくり、
スラムのお母さんたちへの縫製訓練の活動も始めました。
子どもを学校へ通わせるための家庭の収入を安定させるのが目的です。
また、訓練を受けたあとミシンや材料を買ったりもできるよう、
女性たちのグループを作ってグループ貯金をし、
そこから低利子でローンができる仕組みを作ることも始めました。
私財をつかい、無料で通える小学校もたてました。
高校や女の子が通う短大も創設しました。
しかし2002年、そのNGOも撤退してしまいます。
活動は低迷し、生徒の数はどんどん減少。
2003年には、無料で通える小学校や、女性グループの活動は
停止せざるおえませんでした。
ビンドゥさんがAHIの研修に参加したのは、
それからまた5年がたった2008年です。
研修期間中にある、1泊2日の日本の家庭でのホームステイ。
そのホストファミリーをしてくださったのが、
AHIの会員・ボランティアだった、森崎芳子さんでした。
元教師だった森崎さんは、
ビンドゥさんのスラムの子どもたちへの教育と、
無料の小学校再開への熱い思いをきき、
何かやれることはないかと考えます。
ビンドゥさんが帰国した4か月後には現地を訪れ、
校舎の惨状を目の当たりに。
窓もなく電気もなく、雨がふると浸水してしまう校舎。
帰国して、その3か月後には、
バングラデシュ教育支援の会(BESS)というグループを仲間とたちあげ、
支援活動を始めました。
その活動も10年。
校舎も3棟が改築され、今では窓も、電気も使えます。
図書室も設置しました。
そのため、学校に通う子どもも増えました。
文具の提供、お母さんたちが作った刺繍製品の輸入と販売、スタディツアーの実施、里子支援・・・
活動はどんどん広がっていきました。
今も、課題はあります。
里親が見つかっても、結婚や、家計を助けるために働くなどして、
退学してしまう子どもたち。
家庭の収入はまだまだ苦しいものがあります。
また、女性たちの縫製技術訓練活動の自立に向けたとりくみも必要です。
BESSがいつまでも支援をしているわけにはいきません。
ビンドゥさんと森崎さん。

10年の道のりは、ヤマアリ・タニアリだったことでしょう。
(ビンドゥさんの性格?を思うと、それは想像に難くなく・・・)
ですが、このお二人がAHIで出会い、
教育への熱い思いでつながって、育んできたこの活動に、
今も、こうして伴走させていただいていることを、
嬉しく、また誇りに思います。

職員 清水香子